第3回 カンボジア ボランティア 

     

第3回カンボジア海外ボランティアに参加して

    発展の影で見失うモノ・・・・    澤 摩夜

 今年からタイ航空がスルーでプノンペンに運航し始め出発当日夜に着。

漆黒の滑走路をゆっくりとうごく同乗機窓から外をみると、暗闇の中に整備された空港の

近代的な建物がサーチライトに照らされて浮かび上がる。「3年目でずいぶん発展したな」と思う。以前は空港とは名ばかりの、いわゆる建築現場にあるプレハブの様な建物?だったのだ。

日中はプノンペンのメイン道路にヨーロッパからの観光客を乗せた大きな豪華バスが連なる。

サングラスをかけて異様に白いうでをタンクトップからむきだしにした金髪の西洋人が、ぴったりしまった窓ガラスから私を見下ろす。クーラーをぎんぎんに利かせたバスから排出される火傷しそうに熱い排気ガスを縫って、私たちはバイクの後ろにのって料理教室のための材料を購入しに行くのだ。スピードを出すとこれが結構気持ちいい。暴走族の気持ちもちょっとわかる。鉄分を含んだラテライトの赤土が舞い上がる裏通りは3年前と変わらない。だから日本ではとても恥ずかしくてできない超奇天烈な柄のマスクが離せない!!

日本のODAの協力で作られたメコンにかかる「日本橋」は行き交う車とバイクでまるで渋滞さながら、また対岸のコン・ポン・チャムへ向かう道も整備され遠方の村々から椰子や総菜・土産物を売るためにプノンペンに入る人で朝晩は交通事故も日常茶飯事だ。テク・タラーのドンボスコスクールも大きく変わった。雨期の水害で流されてしまう畑の土は、農夫の努力で肥沃な土となりスプリンクラーが機能し、果物がたわわに実る畑へと変わっていた。自給できるようになったため食事事情もよくなり、また町の市場での食材も増え、メコンの河川岸では土日夕涼みをする市民でごった返し、人の集まるところ屋台や物売りもごった返し、少しだけ生活を楽しむ余裕もでてきた。

 しかし、目を凝らすとその雑踏に混じって7歳から10歳くらいの少年が、夕涼みの人々の飲み残した缶をひろい、自分の背丈ほどもある小麦の麻袋に収集している。洗って売るのだそうだ。一袋集めても大した金にはならない。誰が飲んだかわからないその缶にくちをつけ、底にほんの少し残る味のついた液体を喉に流し込む姿は哀れより、それでも生きていかねばならぬたくましさを感じさせた。そのほとんどがストリートチルドレン・・・・現在のカンボジアで広がりつつあるエイズ孤児である。現在のプノンペンは発展と貧困の差が開きつつある。それは男子ドンボスコスクールのすぐそばにあるもっとも貧しい村、プン・チェレに象徴される。

 3年前はじめてプノンペン入りしたときに同行したVIDES会員飛田直子の兄、隆正氏の好意による支援金を現地の担当シスターに渡した。彼女はそれをこのプン・チェレのために全額使用する事となる。毎日曜、キンダーガーデンの先生が発起人となりこの村で日曜学校が開かれている。毎回150から200の子供が集まる。年齢は不明・・・戸籍がないことと栄養失調で見た目より年齢はいっている。自分の誕生日などよくわからない。もちろん学校になど行っていない。親のいない(エイズ孤児)も多い。その多くが一日一食しかできない生活・・・・。列に並ばせ準備体操をしながら「アップ、レフトハンド、ライトハンド」と英語も自然に教える。簡易的な建物の中では年上の子を集めアルファベットを教えていく。VIDES JAPANの活動を2年間見てきた彼女たちの「こころ」に、外国の見も知らぬ人々が遠方までやってきて支援してくれるのに、自分たちがなにもやらないでよいのか?自分たちが自分の国を支援していかなければ・・・という気持ちが起こり現在に至っていると説明を受けた。村の長上も理解を示し活動に同行しシートなどを貸し出す。私たちが同行したときは、年にたった3年のランチ給食の日だった。カナダ製の賞味期限が切れた鰯の缶詰を25個ニンニクと生姜、怪しげな油で炒め味の素をたっぷり入れ酢と塩で味を付け青いトマトを入れたモノがおかず。

これを御飯にかけてこどもたちはほおばる。

しかも、自分たちも飢餓なのに自分の弟や妹の口に先にスプーンを運びながら・・・・食事が終わればのどの渇きをいやすためにため池におりさっきまで牛が全身浸かっていた茶色の水に口を付けて啜る。

政府の開発援助はきまって橋や道路、これはカンボジアに限らない。なぜか?

 一番目立ち、金のかけがいがあるからである。しかし貧しい国で一番貧しきモノは病気の女性と子供で、保健衛生が重要になってくるが組織はこれには金はかけない。

観光客が増えホテルが建ち並び、メコンの通りには代官山のようなオープンカフェも増えたがその裏で貧しきモノは誰の仕業か家を焼き払われ、病気にあえいでいる。

キンダー先生達はVIDESカンボジアとしていま指導を始めた。確かに立ち上がりの国には「もの」は必要であるがものをあげつづけることは決して真の支援にはならない。自分たちで立ち上がる目的を持つこと、これが成功できたとき真の意味でのVIDESJAPAN の支援が成功したといえるだろう。

最後に私事だが今回も3週間にわたり料理を教え、また最終日にクメール料理を生徒からご馳走になり、帰国前日教え子がわざわざ移転宿泊先のツールコックまで訪ねてきてくれたこと、少ないながらも着実に料理技術を生かして就職した生徒がいることに心から喜びを感じている。

 

VIDES JAPANにできる事は何なのか 

      また違ったカンボジアを体験して・・・・      江崎 節子

今回で、カンボジアボランティア参加も3回目となった。今回は澤さんと2人での参加となった。

 例年通り、澤さんは、専門学校の学生に料理の指導。そして、今回から栄養学の勉強も加わった。私はその間、記録のためのビデオや写真を撮ったり、助手として、水を汲んだりしていた。専門学校の学生達はどの子も真剣だ。熱心にノートを取り、実習をしている。彼女たちは夕方授業が終わった後、もう一度ノートを綺麗に書き直し、授業の復習をしている。日本から来た先生の授業を一つ残らず吸収しようとする姿が見える。ある日、顔色の悪い学生を発見。「大丈夫?」と聞くと、「先週、手術をした。」とのこと。顔色も悪く、腕が冷たい。彼女は脇の下を手術したらしい。見せてもらうと血のべっとりと付いた包帯がしてある。「おいおい、大丈夫か〜?」と日本語で言うとニュアンスが伝わったらしく、力無くほほえんだ。「座って。」とイスを持っていくと、なにやら言っている。先生の訳によると、「勉強したいから。いい。」と言っているらしい。こんな学生がいるんだな〜。と涙がでた。一人で泣いていると変だと思ったので、窓に向かって皿を洗いながら、泣いた。その後3週間、私たちはその学生を見ていない。本当に心配だ。

 私も例年通り、幼稚園の先生方に幼教の紹介をした。今年は簡単な音楽と、ダンスを紹介した。カンボジアでは音楽は授業で取り扱われていない。幼稚園でもカンボジア音楽のみの授業となっているようだ。当然「ドレミファソ・・・」は分からない。2拍子、3拍子など問題外。日本人の殆どの人が知っているであろう「きらきら星」「ハッピーバースデイ」の歌をうたうのが、こんなにも難しい事だったとは思っても見なかったし、幼稚園に在職中、子供達と何気なく楽しんでいたタンバリンやカスタネットがこんなにも、難しいものだと言うことを思い知らされた。やはり、ここは日本ではない。改めてそう思う。あるシスターは大笑いしながら「無理よ。」と言った。私は「ネバーギブアップ!!」と大声で言った。まあ、自分のやれることはやった。これがVIDESのモットーなので良しとしましょう。そんなことよりも、3回目ともなると先生方とも仲良くなり、モト(バイク)で買い物に行ったり、遊びに行ったりと生のプノンペンを見せてもらった。公園でカンジュースを飲んでいると、カン集めの少年が近づいてきた。カンを渡すと彼は、まず残っている滴を舌の上に丁寧に垂らし、大きな袋にカンを入れて持っていった。公園には、このようなカン集めや、靴磨きをして働いている子供が沢山いる。

 日曜日には、VIDESカンボジアの活動してるプンチェレという村に行った。昨年発足したばかりのVIDESカンボジアは、ドンボスコスクールの幼稚園の先生で構成されている。毎日曜日の午前中、この村で遊んだり、文字を教えたり、モラルを教えたりしているようだ。子供達の目は、本当にキラキラしている。何をしても楽しいと言った感じだ。ちょうどこの日は食事のサービスもある日で、子供達は250人くらいにまでふくれ上がった。食後、子供達は続々と池の方へ。何をしているのかと思ったら、池の水を飲んでいた。ある子供は、お皿ですくって、ある子供は蓮の葉で。そして小さい子供達は、直接池に口を付けて飲んでいた。言葉がない。ここに浄水器を付けたいとシスターは言っていた。

 今回は昨年、一昨年よりも長い滞在だったので、また違ったカンボジアを体験した。とにかく、今カンボジアには必要なものが沢山ある。お金、教育、医療・・・・。VIDES JAPANにできる事は何なのか、これからみんなで考えていかなければならないと思っている。