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「ここは本当に、首都?」 飛田 直子 「カンボジア日記」 江崎 節子 ポル・ポトの「共産主義」とは何だったのか |
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「ここは本当に、首都?」 カンボジアでの15日間に、貴重な新しい経験をし、たくさんの刺激と影響を受けました。ポルポトの大虐殺場や拷問所の見学、エイズ患者の方々の訪問、地雷で手足を失った方々、凄まじい悪臭と煙ったゴミの山、そこでゴミをあさる人々、スラム街の家々とそこで暮らす人々、そして巨大な世界遺産アンコールワット。夜中、鳴きまくるイモリたち。もっと頑張って蚊を食べてほしかった。何度かけても繋がらなかった電話回線。はりきってたくさん書いたのに、ほとんど届かなかったエアメール。どこへ行っちゃったんだろお。 一晩だけ大発生したコオロギたち。次の日の朝たいていは死んじゃっていて、ほうきではかれていた。何だったんだろう。ちっちゃいのにたくましいありんこたち。虫の死骸やお菓子には一目散にやってきた姿に、感心と感動。けど、朝起きたら私の歯ブラシにたかっていたときには・・・さすがに腹が立った。歯ブラシはちゃんと手でこすってきれいに洗わないと・・・。そして22年間の人生で一番重傷のおなかぴーぴー。トイレの床にうずくまった。今思うと・・・汚い。でもあの時は必死だった。あの正露丸もカンボジア版ぴーぴー菌にはかなわなかった。 そんなカンボジアに行って一番嬉しかったのは、たくさんの人との関わりです。訪問した先々で関わったカンボジアの人々、遠慮深くって恥ずかしがりやの生徒達、無邪気な幼稚園の先生、一緒に生活した何カ国ものシスター方。そして、一緒に行った澤さんとせっちゃん。 屋台でトウモロコシを買ったとき、「ポルポト時代に虐殺され |
村の畑へ行ったとき、「地雷があるかも・・・」って私を先頭にして、私の踏んだ所だけをたどってきたせっちゃん。そんなに近くに追ってきたら、私が踏んだ地雷で一緒に吹っ飛んじゃうよ。ホテルに泊まったときは、いつも同じ部屋、修学旅行みたいで、ずっと笑いっぱなしでした。出会ってまだ2年のせっちゃんと、あんな風にカンボジアで一緒に生活するなんてとっても不思議で、けど何だかとっても嬉しい気がしました。一緒に行けて、ほんとに楽しかったです。何気ない優しさや気遣いが、私は本気で嬉しかったです。澤さんとせっちゃんに頼りっぱなしの私でしたが・・・、きっとまた一緒に行こうね。そして、本当にありがとうございました。 そして、VIDESと言う組織があったからこそ行くことのできたカンボジアです。VIDESに心から感謝です。私は4月から社会人です。これまでのように海外へ行くチャンスは減ってしまうかもしれません。でも、新しい立場で私ができることをまた、探していきます。機会があったら是非またカンボジアに行きたいです。今度はもっともっと英語を勉強して・・・。 |
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2月5日(土) |
で、直ちゃんは流ちょうな英語でシスター方とお話をしていた。シスターはお菓子や、飲み物を準備してくれた。氷には気をつけろと言われていたのに、シスターはジュースに氷をいれてくれ、ちょっと戸惑ったがおいしそうな炭酸にひかれてゴクゴク飲んだ。でも、大丈夫そうだった。それから学園内を案内してもらった。日本とは全く違った環境に、興味をもった。子供はやはりどこの国でもすごくかわいかった |
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それから私たちと、台湾からのボランティア、シスターの5人でキリングフィールドに行く。車で送ってもらったが、途中道路が壊れていたのでバイクタクシーに乗る。シスターが気を使ってくれ、「お金は出さなくていいから。お金持ってるの見つかったら殺されるよ。」というようなことを英語でジョーク混じりに言っていたが、みんなのお金を預かっていた私は本気でおびえてしまった。首から下げた財布をベルトにしっかりとはさみ、初めてのバイクタクシーに乗る。でこぼこ道で怖かったが、おじさんたちは異常にバイクがうまかった。山あり、谷ありのでこぼこの、道のりをがんがんとばしていた。キリングフィールドに着く。97年98年のクーデターで一度入れない状態になっていたそうだが、今は大丈夫とのことだった。ここは名前のとおり、ポルポト時代の「殺しの丘」だった。おびただしい数の頭蓋骨。発見されただけでも9000近くにおよぶ。あちこちに大きな穴があり、そこに埋まっていたそうだ。 |
2月8日(火) ![]() |
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そのあと、縄跳びをする。短縄は交差飛びのできた先生は12名中、2名。こんな感じなんだ。と思った。(日本の子供と同じ飛び方をしていたのには笑った。)長縄も大喜びだった。縄を蛇に見立てたところではさすが幼稚園の先生、一緒にのりのりでやってくれた。今後カンボジアの子供達に楽しんでもらえればいいな、と密かに期待している。 2月11日(金) |
に聞いていて、とても驚いた。日本の紹介で、冬にスキーが盛んに行われることを話すと、彼女たちは雪もスキーも知らなかった。まあ、一年中暑
い国だからね。ここは。午後はこの学校に通ってくる子供達の家に訪問した。何処に行っても想像できないほど不衛生で、貧しい家ばかりだった。なにから手を着けて良いのか分からないほど貧しい。シスター方は、貧しい子供にお金を持たせ、教育を与え、食事を与えている。次の世代が良くなれば、次の次の世代はもっと良くなるという発想に深くうなずいた。各家には小さい妹や弟がいて、子供達だけで留守番をしている。もちろん昼食はなし。ほとんどの子供が一日一食。幼稚園に来る子供の中には幼稚園で出されるお給食(ご飯にスープをかけただけの)を楽しみにそれを目的で来る子供もいるようだ。 |
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2月14日(月)〜16日(水) |
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ポル・ポトの「共産主義」とは何だったのか
ポルポト氏が独裁的に目指したのは「人間の改造」であったといわれる。労働によって共産主義にふさわしい人間に変えるのにもっとも適した人々は、捨てるものがなにもなく知識もない貧乏で純粋な農民や底辺の労働者だ・・・・という理由で「先ず、全員を貧農にする」という政策を強行する。医師・教師・技術者などはブルジョワ思想に浸されたものとして弾圧、眼鏡をかけているだけで知識人とされ残虐に処刑されていった。また、通貨や市場を廃止、企業もすべてつぶされた。休日はなくなり、余暇はなくなり音楽や映画、恋愛も禁止。人々に許されたのは毎日朝から晩まで農作業や機械を使わない土木作業に携わって働くことだけだった。 こうしてポルポト氏が政権を執って2〜3ヶ月もしないうちに何十万人もの人が処刑され、餓えや病気で虫けらのように死んでいくことになる。 |
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暑い空気と埃の臭いがするプノンペンの中心街をドンボスコスクールの4輪駆動車で走りながら、私は子供の頃、祖母や両親から聞かされた戦後の日本を思い出していた。昭和33年の生まれで高度成長期育ちであるから戦後などは全く知らないが、観光客の集まる場所で自らの負傷した体を見せ物に金や物をせびる傷病兵、メコン川沿岸でやはり観光客あいてに靴磨きをする少年、アメ横のような市場で地面においたでこぼこのアルミの鍋から立ち上る「うどん」の湯気に集まる人々家族を養うため12才から15才で売春宿に売られる少女、2$の学費が払えない学生、裸の妹を抱き子守をする5才くらいの少女、貧しい途上国に来てくれた外国人というだけで、私たちと会うたび目を輝かすドンボスコスクールの少女達。彼女たちに登校拒否などという事は理解ができないだろう。 |
実習中、無心にノートを取りクメール語と英語で質問をしてくる。プノンペンには話に聞いた日本の戦後とそっくり同じ風景があった。 長年に渡りベトナム派のフンセンと王室派のラナリットが選挙の度にもめて、クメールルージュの残党が加わる政権争いが続く国情のため、国内の経済は全く安定していない。しかし何故復興できないのか・・・ たしかに国の立地条件、赤道ラインに近く産物がない貧困国であり、国情は先に述べたとおりだがそればかりではないと思う。 |
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その結果、大人になった当時の子供達は家族を思う気持ちが欠如している。現地のシスター方もこの点を憂う。子供をドンボスコスクールに通わせるのでなくいわゆる口減らし的に考えている親が多く、そのため毎週金曜に生徒の家を3から4件づつ訪問する。指導したとおりの生活はできなくても、少なくとも向上する姿勢が見られるかどうか視察に行くのである。
料理教室でこんな事があった。前日、お椀や米を出しっぱなしにしたので、ネズミの糞がその中に混入し、それを驚きもせず指で払っている姿に、私たちはかなり驚愕し指導したのだが、生まれてからずっと川岸の床が隙間だらけの掘っ建て小屋にすむ彼女たちの衛生観念を、設備の整ったドンボスコスクールの家庭科室のみで、指導したところでそれはむりというもの。日本を引きずっていっては、第3国での本当の支援は難しいことをあらためて肝に銘じた。 表目には日本の家族は豊かであり、子供を思うあまりゆがんだ押しつけ教育まで発展する光景があちこちに広がる。しかし、日本の家族制度 |
も少子化・核家族化・地方の過疎化・農村の後継者不足と危うい状況となっている。親を親とも思わない態度の子供や、子供の言いなりの親、日本の家族制度もある意味で危機といえよう。もちろんそんな家ばかりではないが・・・・・ |